尾張西枇杷島まつり (愛知県清須市西枇杷島 旧美濃路界隈)
この「尾張西枇杷島まつり」は、名古屋の西の玄関口である枇杷島橋から、美濃路を西に広がった町並みに、橋詰神社、六軒神社、松原神社があり、これら須佐之男命を祀る天王社の祭礼であることは先に述べたとおりである。その祭礼に享和二年(1802)現在の橋詰町、問屋町、西六軒町が山車を神社に飾るようになった。(当時は尾張藩の規制により、山車を曳くことはもちろん、からくり人形を載せることも許されなかった。前に書いた「名古屋の対岸でありながら」とはこのことである。つまりは山車祭は尾張藩、名古屋のものであって、他の地ではやってはいけない!というケッチ-規制をしていたのだ。別な話しだが、庄内川の堤にしてもそうである。昔から名古屋側の堤は高くて立派だが、対岸側は低く造られ、大雨になっても名古屋は大丈夫なようにできていたのだ。信じられないことにこれは近年まで続いていたのですよ。)話しが脇に反れたので本題に戻しましょう。文化二年(1805)に東六軒町が山車を持つようになり、ようやく同五年(1808)になって祭礼に山車を曳くことが許され、同九年(1812)に人形を載せることが許されたのである。しかし、人形は載せるだけで、動かしてもよくなったのは翌年からである。(本当にケッチ-ぞ、尾張藩(笑)!)その後、明治四年(1871)に杁西町(氏神は二ツ杁神明社)が参加し、現在の五輌の山車の揃うお祭りになった。それでは五輌の山車を見てみましょう。五輌とも「名古屋型」の山車で、近年各山車とも修復が行われ、往時の煌びやかさが戻っています。
橋詰町の「王義之車」(おおぎししゃ)
享和二年(1802)製作で、王義之、大唐子、小唐子、前人形のからくりを載せ、五輌中唯一 の離れからくりで、小唐子が大唐子の肩で逆立ちをする。
問屋町の「頼朝車」(よりともしゃ)
享和二年(1802)製作で、源二位源頼朝、静御前(白拍子)、臣下、前人形のからくりを載 せ、静御前が義経を偲んで舞い、途中で手に持った扇を開く。
西六軒町の「泰亨車」(たいこうしゃ)
文化二年(1805)製作で、僧正坊、木ノ葉天狗、牛若丸、前人形のからくりを載せ、天狗を 相手に牛若丸がなぎなたを振り回す。
東六軒町の「紅塵車」(こうじんしゃ)
享和二年(1802)製作で、関羽、太鼓撃唐子、鳥舞唐子、前人形のからくりを載せ、太鼓撃 唐子の太鼓にあわせ、孔雀に変身した鳥舞唐子が華陀の舞を踊る。
杁西町の「頼光車」(らいこうしゃ)
明治四年(1871)製作で、源頼光、渡辺綱、坂田金時、熊、前人形のからくりが載り、坂田 金時が岩を投げると、熊が飛び出し、暴れまわる。
このお祭りが行われる旧美濃路であるが、現在はJR東海道本線や新幹線の高架によって東西に分断されている。東に「王義之」と「頼朝」の二輌、西に「泰亨」「紅塵」「頼光」の三輌である。特別な催しがない限り五輌が揃うことはないのである。西側の三輌は狭いうえに両サイドに露店のでている美濃路を東西に動くことしかできないが、東側の二輌は県道を越えたり、名鉄電車の踏み切りを越えたり(これは橋詰町の王義之車だけだが)、西側と比べかなり自由に動ける印象がある。何かJRの高架を挟んで、違うお祭りを見ているようでもある。実際数年前に一番西端の杁西の梶方の人が、一番東端の橋詰の山車の運行を見て、「同じ祭りなのに、見える景色が全然違う。」と言っておられた。
次にお祭りの見どころですが、この「尾張西枇杷島まつり」の山車の一番の見どころは「曲場」(まえばと読みます。)でしょう。「曲場」とは何かというと、山車の方向をかえるもので、他の山車祭では「車切」(しゃぎりと読みます。)がよく行われます。「車切」は梶方が力任せに山車の方向をかえるもので迫力満点です。(西枇杷島で車切を行うのは、王義之車だけです。)が、ここでは場所が狭いので車切はできません。そこで行われるのが「曲場」なのです。車切に比べると迫力は物足りませんが(関係者の方ごめんなさい。)しかし、その技術は素晴しいものです。「曲場」では梶棒を担ぐ男衆は何もしません。(何もしないというか、ただ梶棒を担いで山車の前輪を持ち上げるだけなのです。)山車をコントロールするのは梃子の役で、後輪を梃子を使ってずらしていき、方向をかえるのです。狭い美濃路では絶対に山車を前後にずらせません。ずれたら山車が回転できないからです。それをわかって見ていただくと成功したときなどは心からの拍手を贈るに違いありません。まだまだ、紹介したいことが山ほどありますが、今回はこの辺りで終わります。次こそは2日目のレポートしますからね(笑)。